私たちが、悪しき事に加担するようになる

昨今の新聞報道やTV報道では、防衛費の増大が歴史的増額となりその財源の問題を話している。

 まず最初に 防衛費 というけれども 軍事費であって戦争をする前提の費用だという事。

 私たちの日本という国が、歴史的転換点となる『戦争をする準備をしようとしている』事を理解しなければいけないと思う。

 が、TV報道では.世論調査で、半数あまりが防衛力の拡大に肯定的であるという。

 みなさんも言うまでもなく ロシアによるウクライナ侵攻や中国と台湾 北朝鮮のミサイルの懸念があることが前提だと理解されているかと思います。

 私自信、世論調査の結果にそういう回答が出る事もなんとなく想像がつき、TV番組の司会者が防衛費拡大を前提に、財源をどうするか?の議論に持ち込んでいるのは流れだと思っていました。

 しかし、街角インタビューで、北朝鮮やロシアや中国の軍事対立の懸念に対して 防衛力をもっと上げるべきだと話す サラリーマン風のおじさまや若い女性に私はかなりの違和感を感じました。自分とは無縁の話だと。

 防衛力を拡大する=軍事費を費やし兵器を揃える と考えていないかと。

 交戦状態を想定した予算や配備は、誰がそれを使用していくのか?交戦状態になったして、あなたはそのままサラリーマンをして普通に働きクリスマスを楽しんでいるのか?

 いうまでもなく、日本が交戦状態になれば、現在のウクライナの様に砲撃され、また、他国の領土にミサイルを打ち込み現地の市民にウクライナのような悲劇を作り出す事になる。

 そうならないように防衛力を高め交戦しない=戦争をしないようにするという論理を岸田首相や自民党政府は語っている。

 どうすれば、私たちは戦争をする事なく生きていけるのか?自分でも悩ましいと思う。

 ある文章にひとつの筋道があった。千葉大学大学院の神里達博教授が、朝日新聞のメディア批判の中で次の様に書いている。

政府は今月、安全保障政策を大きく転換した。8年前、当時の安倍政権が憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を認める閣議決定をしたが、その時の官邸前は反対のデモで埋め尽くされていた。当時と比べると今は、明らかに『静か』である。

から始まり

日本を巡る安全保障環境が変化し〜を枕詞にして語られるが、安全保障環境の変化は自然現象ではなく人と人のコミュニケーションの結果である。私たちは言葉の力を信じる事から始めなければならないはずだ。また、政府の最も大切な役割は、国民の生命と財産を守る事だ。その為には自国が戦争に巻き込まれないようにすることが何よりも重要である。そしてそれこそが『外交』の目的だ。防衛力は、その手段のひとつである。

 ならば政治家たちは、外交で言葉を尽くしたのだろうか、日本で、世界で。また、これほどの重大な政策転換において、国民に十分な説明をしたと胸を張って言えるのか?

 とある。ここからメディア批判が始まる。

私たちが見るべきは、政治家の使命として言葉によるコミュニケーションを各国ととり国民にこの方向転換を議論してきたか?だと思う。

 米国のペロシ議長が、ウクライナ🇺🇦のゼレンスキー氏に支援の笑顔と握手をしていた。しかし、台湾を訪問し中国ー台湾の緊張を高め軍事的緊張を高めたのはどういう意図なのか?第一列島線上に巨大な自衛権ミサイル基地を多数作り中国に向けた軍事的圧力を高めている日本政府の意図はなんなのか?

まさに軍事的緊張を高め交戦状態に持ち込む事で私たちはどうなるのか?

誰が得をし利権に預かるのか?元米国大統領のブッシュ家は、アフガニスタンに武器輸出で多額の利権を得たのではなかったか?イラクに大量の武器を米国は売り込み国家予算にも値する売上げを得ていないか?悪者扱いをし軍事的緊張を高め後に国際法違反の戦闘行為を仕掛けていなかったか?

私たちが、軍事費を積み上げ軍事的緊張を高める事で平和を維持するとか国民の命と財産を守るとか言う前に、外交交渉をしたのか?足を運んで熱意を伝えたか?安倍に至っては、プーチンに27回も歓談しながら外交成果をあげられることなくウクライナ侵攻を止める行動すらしなかった。

 私たち日本の政府は、外交交渉すら尽力せず軍事的緊張を高めている。

私の周辺の人が話していた。

 日本は武器は作っていないし、国を守ることをやっていないーと。

明らかな間違い!安倍による屁理屈で、武器輸出三原則は破棄され 武器移転 と言い換え武器兵器生産に身近な日本企業は汗を流している。ウクライナ侵攻で話題の多い戦車のキャタピラはもちろん日本でも作られているし誘導兵器の電子制御関連、ドローン、砲台関連などあげればきりがない。すでにフィリピンには三菱グループから兵器の完成品までシステムを含めて輸出している。

 私たち日本の市民は、世界の良き市民であり得ず、戦争に加わる被害者になり得る道を歩み始めようとしている。

 それより問題なのは、被害者である事以上に加害者になってしまう事だ。

知らなかったでは済まされない。

私たちが、悪しき事に加担するようになる。